金閣寺:原作と異なる溝口の発生元ー客観的憶測

 前回エントリーで、歌番組名称を間違えていたので修正。その他捕捉等もした。
 いただいていたお二人のコメントのお返事を、ぼつぼつと返していきます。

gomama様。
 1月30日エントリーにいただいたgomama様のコメントから。
> 金閣寺は29日にぽんちゃんと見ました。一の方のママもご来場。
> ぽんちゃんに向かって手を降るママ。息子のファンは忘れません。
 一の方のお母様が1月29日に舞台を観劇された、とのこと。ここを読んで思い出したのが、2005年コンサートMC(初回限定DVD)での、下の3人による「俺たち、一の方のお母さんに認められていないんだよ」という発言があったかと(確か)。
 一の方と四の方の距離が近づく度に、「一の方、でかした」と誉めていましたが(←四の方がZORROの舞台を見に行ったときでさえ)。今回初めて、四の方の方を誉めようと思いました。やった、一の方のお母様の公認だ!。(←言い方に語弊あり。ついでにお母様が、単に三島ファンだという可能性も意図的排除?)

 以下は、2月19日エントリーへのgomama様のコメントを中心に。
> 私の記憶では、2回目と3回目の笑みは多少の違いがありました。
> が、それ以前で身体の使い方が違いましたね。感じる限り、
> 2回目の方がニヒルでした。
 状況をありがとうございます。ほんの些細な動作の違いで、大きく結末が違ってしまっていたかもしれない初演のKTAAT公演。自分が見た回とは違った結末がDVDには収録されているのかもと思うと、何となく見る気が削がれてしまっています。
 自分の一番心に残ってしまった回(凱旋公演1月27日)の結末映像が残らなかったのは、もの凄いフラストレーションになることが分かりました。今後の舞台観劇には二の足を踏みそうな位に。
 せめて、生きようといえずに死んでしまったあの溝口が救われる翻案を、誰か書いてくれないものだろうか。

 漸く、本題です。
 以下、推定形で書くべき部分も、主観的な断定形で書きます。
> 原作云々については確かに初期のインタビューでは読んだと言っていますが、
> 三島の物ではなくカナダのセルジュさんのフィルターが掛かっています。
 ネットや手元にあった資料等を見ても、やはり私の中での推測は変わらず。数日前から書く内容は決まっていたが、書き方の部分でどうしようか考えていて延び延びになっていました。
 最初に、セルジュさんが担当した「翻案」とは何かが良く分からないので調べましたが、意味が広範に渡っているようで良く分かりませんでした。Wikiなどによると、狭い意味では別形態の作品にすること(小説を映画化など)、広い意味では新たな続編を創作する行為まで範疇に入るらしい。セルジュさんの翻案とはどの範囲か、オリジナル性を帯びたものかは限定できませんでした。
 なので、セルジュさんがどんな仕事をされる方かを調べてみました。分かったのは、このセルジュさんはカナダ(英語・フランス語が母国語?)の方で、恐らくフランス語がネイティブ(日本語がネイティブではない人)。井上靖の「猟銃」の舞台化に際し翻案を手がけ、同カナダ公演でのトークショウで、フランス語で主演女優と語っていたそうなので。金閣寺でも翻訳の人がいるし。
 これは昨年KAAT公演の前後に発売されていた雑誌等を読んだ時から少々気になっていたのが、このフランス系のお名前のセルジュさん。おフランスが舞台の某漫画で主人公の片割れがこの名前だったので、もうおフランス人だと勝手に思い込んでいました。そんなこんなで、外国の人の手を通した訳(案)を取り入れる意味は?。言葉の響き等も重視したこの金閣寺でそんなことをするメリットは?、と考えるとかなり気になる要素だった。外国語というワンクッションを入れる意味が分からなかった。コメントをいただいたのを機会に、色々と考えてもみました。
 このセルジュさんの作るフィルターがどうしても必要だと、亜門さんが思ったという可能性も1つは考えました。が、そこまで強い(フィルター)変更ならば、三島由紀夫を強調するよりも、セルジュさん翻案を強調するべき筈だが、雑誌等では亜門さんはそんなことはほぼ語っていないようだ。亜門さんにとっては全体の中でのウエイトは比較的些細な要素だと思われる。
 またgomama様が想定されるように、亜門さんの案(仮に今回の舞台の溝口の有り様)を受けて翻案を書いてもらうならば、より滑らかな意思疎通が出来る日本語ネイティブの人に翻案を頼む方が良いはずです。例えば、脚本の伊藤ちひろさんとかに。最初から彼女の方が良いはず。寧ろ今回の舞台では影のブレーンと呼べそうなほど、当時日々変わったという台本変更に関わっていたのだし。
 さらにネットを探した所、元々の掲載記事(恐らく朝日新聞)のは読めないので、それを転記したと思われる、とある建築関係のブログの2011年1月31日の記事『「考える劇場」創りたい 宮本亜門が抱負』がありました。それによると「日本の外からの目、若い世代の感性など、違う視点を加えることができた。」と亜門さんは述べたらしい。ここで言う”外からの目”がセルジュさん、”若い世代の感性”が伊藤さんだと思われる。この言い方からは、セルジュさんに原作から離れる特殊なフィルターを付け加えさせたとは思えない。三島作品が好きな亜門さんは、三島の日本的なものをとても大きな存在と感じ取っている。その日本的なものを薄めさせる、ないしは洋風の視点を強化する(外国で演じることも視野に入れていた可能性も含め)、その意図で亜門さんはセルジュさんに翻案を依頼したと思われる。
 ちなみに、亜門さんよりももう少し若い世代の私には、三島の日本的な物にはナルシシズムに近いものとしか感じられないので、価値観は感じない。前の冬季オリンピックでも全選手がベストの滑りが出きるように願っていたが、特に「キム・ヨナ」のを願った非国民の私。小塚のも”特に”を願ったけれど。
 なので、gomama様がおっしゃる
> 原作の溝口の方がその辺にいるタイプで、
> 舞台の溝口こそファンタジーでして、原作の色がほとんど無いというのは、
> やはり三島は読んでいないと踏みました。 
 前述の理由で、私は逆に、四の方が読んだセルジュさん翻案(英仏どちらで書かれた物かは不明ですが)ないしはその他の英訳は、ほぼ原作通りのものだと思います。
 寧ろ、先の亜門さんの言い方からすると、原作から離れる助けになったのは”感性”と言われた、その後に加わった伊藤さんの方だと思います。
 もう少し。亜門さんは、原作を読み込んでいる人でしたよね。なので、セルジュさんに依頼した際には、恐らく舞台溝口を思わせる要素は亜門さんには無く、亜門さんが読んだ三島(原作)溝口しか亜門さんの手持ちはなかった可能性が大。
 なので、セルジュさんへの依頼時に亜門さんの出した要望の中には、舞台溝口はほぼ存在しなかっただろう、とも。

 ちょっと気力が尽きてきたので端折って書かせてもらいますが。KAAT公演前後に買った四の方の複数の雑誌インタビューを読んだ当時、四の方の溝口像の変化が気になったものでした。
 早い発売時期の物程、四の方は溝口に対して”強い男”という感触で語っている時が多かった。それが後になるにつれて、”繊細”とかという印象も語るようになって来たのを覚えています。初期のは亜門さんと同じ原作に近いものだと思われる(高校時代に気持ち悪くて「金閣寺」を読むのを私は途中放棄したので、とんでもなく憶測)。が、四の方は更に深く読み進めていくうちに、原作の溝口の金閣寺への言葉と燃やすという行為に矛盾を感じることになったのでは、と。
 言葉が自身から離れた道具でしかなかった三島と、言葉は自身そのもの(であるだろう)四の方。この二人が金閣寺を燃やした(殺した)後の結論が”生きよう”と”死にたくなる”と差が出てくるのは当然かな、と。当然舞台稽古等が進んだ時期になると、亜門さん、伊藤さんによる演出脚本が、四の方達主演3人の存在と感性に合わせてカスタマイズされているだろうから、四の方はよりナチュラルにそう思うようになったのだろう、と。
 凱旋公演パンフレットでの四の方の言葉ですが、
・〜初演から変わらないのは溝口はとても強い人ということ。それは彼自身がもともと持っているものでもあると思いますけど、ただやはり溝口の回りにいる人たちが、彼をそう作ってしまったのではないかという部分はすごく感じます。そして彼はその中で戦っている気がする。〜
 ”彼をそう作ってしまったのではないか”は四の方が感じる溝口の繊細な部分のことではないかと。

 舞台の溝口の発生元は四の方の存在、特に感性が発生元だと私は思います。これが(+高岡さんと大東さん)、原作オンリーだった亜門さんに、原作とは異なった溝口(柏木、鶴川も?)の姿の可能性を示したと。
 以上、長々と書きましたが、舞台の結末の受け取り方が違うgomama様と私ではこの結論が一致することはないかもと思います、やむなしかと。ましてや、余りにも資料が足りないし。
 なので、先日の「BEST STAGE」2012年4月Vol.43の宮本亜門さんとの対談では、そんな資料になるような記事を期待していたのだが、残念。
 ついでに、ちょっと引用。
亜門さん:それぞれ自立した、静かなクリエイトの場だったと思う。
四の方:稽古場…、そうでしたね。
亜門さん:奥深いところで、真の対話してたね。
 上の”それぞれ”は、高岡さん、大東さん、までもを含んでの言葉と思われる。役者と演出家(又は監督)はどのような関係を結ぶのか、また作品にどう影響するのかは私はほぼ知りませんが、”奥深い””真の対話”は4人の間では特に頻繁だったのだと思う。これによって役者の方も、演出家の方も相互に作品、役のパーソナリティ(設定)、ストーリー展開にまで影響を与えることは想像に難くない。
 余談だが、役者が監督に大きな影響を与えた例?。某グループ6人が主役だったHLHとHUD。2作品での6人の配役の変化具合にかなり腑に落ちたものだった。6人を遠くから見たHLH、もっと近くから見たHUD、という感じで(役に余り変化のないメンバーもいたが)。

 今回は自分の中では客観寄りの理由を書いたが、次のエントリーでは主観的な面を。こちらの方がより強い理由として私にとっては存在している。まやママ様へのお返事はそちらで。