満たされるものを探してー「鉈切り丸」怪物の欲望の体験とその感触1ー

 前エントリーの続き。舞台「鉈切り丸」を「見なければ良かったか?」には「いいえ」と答える理由。面倒なので書き直していないが、断定形で書いていても正しくは推測文(体調不良で見た舞台なので)。

 先日のFNS歌謡祭。録画をしていたので、放送時は2、3場面を見ただけ。良太郎の後ろのテーブル席に座る白い上着の6人を発見。放映中に某グループは何の曲を歌ったのかをネットで調べたら「WAになって」。この曲のソロ部分は一の方か四の方のパート。付け加えると、ここ何回かの音楽番組では四の方が歌っているときが殆ど。なので、録画を再生するのに躊躇した。恐る恐る再生したら、楽しそうにソロパートを歌う三の方の姿。珍しい感じだなと思いつつ安堵した。
 再生を躊躇した理由。実は現在、当分の間(あと半月くらい)は四の方の高音を聞きたくない状態。端的に書けば「鉈切り丸」観劇の後遺症。こう書くと、前エントリーの内容と合わせて読むと「ものすごく繊細な人」と勘違いされそうだが、私の場合は全く違う。私のこの反応は、人としての精細さとは真逆の、度し難い自己保存本能に根ざすもの。
 それが如実に分かるのは、「鉈切り丸」の中で巴が手込め(時代劇なので古い言い方を採用してみた)にされるシーンでは吐き気は感じなかった。『こんなリアルな感じではなくもっとぼかした表現や暗転してくれれば良いのに』と思った程度で。本当に繊細な人というのは、このシーンでも体調に不具合を起こしていたのではないかと思う。
 観劇が3階席だったので声だけが四の方だと識別できたのも大きな理由だが。この舞台の四の方の声は普段の四の方の声と変えているのだが。それでも、今はまだ、わざと低音を作っていない四の方の通常の音域の声を聞くと鉈切り丸の声が甦り観劇中の体調の悪さを微妙に思い出すので、もうしばらくは聞きたくない。四の方の声を嫌いになったわけではない。ただ、あの舞台を五感でリアルに思い出すものには余り近づきたくない。薄まった記憶で沢山だ。
 四の方の本来の声と鉈切り丸の声については、又後で書くかも。

 今年8月下旬からはまっている作品が「仮面ライダーオーズ」。数年前の作品で、「仮面ライダー電王」で脚本家の小林靖子さんが気になって、彼女の世界観等を確認したくて見始めて深みにはまった。特撮なので子供向けの部分もある。が、寧ろその子供の親御さん世代に向けて作った部分が大きい作品のような気がする。彼女が手がけた「電王」よりも子供メインという制約が薄いせいか、小林さんは能力全開で書いているような気が。
 その「オーズ」のテーマは欲望。夢とか、希望とか、綺麗事の望み出はなくその裏に潜む本当の望みに気付く(探す)、そういう面までも含んでの「欲望」がテーマ。登場するキャラクターの中に、人間の欲望を元に作られ人間の欲望を食べ、満たされずに最後には人間や更には世界を食べるとされた怪人(怪物)グリードがいる。グリード−強欲を意味する−というこの言葉は古くからあったが、最近メジャーにしたのは「鋼の錬金術師」なのかな。”満たされることが決してない”ゆえに”貪欲に欲望を満たそうとし続けるしかない”怪物、その数体のグリードの中で、主人公と行動をともにした1体だけが「満足した」と言って消滅するのが物語の最後(ざっくり書くと)。本当は、とても好きなキャラクターだったので、消滅とは書きたくないのだが。そしてこれと恐らく対になる1体で、自身が決して満たされないことを悲しみながら消滅したのもいた。
 余談だが、エントリータイトル中の「満たされるものを探して」は、「オーズ」の主題歌に出てくる歌詞から。「オーズ」では、主人公も行動をともにする1体の怪物も、各々がこれを必死で行う羽目になる。主人公(人間)に至っては、物語中盤位まで自身が満たされないことに気づいてさえ(感じてさえ)いなかった。

 そんな風な上記の作品を見るうちに、怪物って何だろうねと思い始めた頃に、一の方の「フランケンシュタイン」と四の方の「鉈切り丸」、両方とも好みの話ではなさそうだが、どちらも怪物が1つのキーワード。どちらかを観に行こうかと考えているところに「鉈切り丸」チケットを譲っていただけることになったり等々が重なり「鉈切り丸」観劇へ。もう1つ、脚本家と演出家が「IZO」と同じ人達で、むやみにこけおどしの作品は作らない人達だろうと信用した部分も選択のポイントだったらしい。それもあって、具合が悪くても「この舞台を観ろ」と思ったらしい。
 "怪物"目当てで観に行ったが、思いもかけず"欲望"の方もあった。むしろ「鉈切り丸」においてはこの2つは切り離せないものであったような気がする。"欲望"と"怪物"の比較対象用として、目的も果たせた部分で観る意味はあった。そういう視点、傾斜がかかった「鉈切り丸」の物語感想。

 範頼と書かずに、私が鉈切り丸と書く(呼ぶ)場合は、決して満たされないという呪いを受けた(かのような)存在として範頼を見なしているとき。
 舞台1幕の後半くらいだったか、建礼門院の生き霊が範頼と巴の婚姻の場で範頼に言った(呪い?予言?の)台詞、「お前には欠けた穴がある」「その穴は埋まることがない」みたいなことを言っていたと思う。これを聞いたとき、ならば範頼は、満たされない故に強欲に求め続ける怪物だ、と思った。そして今は、義経を死に追い落とした冷酷さ、巴を殺した残虐さ、それらの行為よりもそうすることを"生き生きと"望んだ欲望それこそが怪物のように思える。"生き生きと"と書いたのは、井上さんの演出がそういう構成だったような気がするから。これも次回。
 そんな範頼だが、私は嫌いではない。当然、好きでもないが。良い人悪い人が好みの基準でもないので。当然だが、熱烈な四の方ファンの感想で多く見かけた、悪の魅力で格好良い、みたいなものはかけらも持たないが。